2 暗闇の神官  草むらが揺れた。  女が振り向く。  彼女の髪が落ちつく前に、風が吹く。  そして、紅の雨。 「お母さん!」  そう呼ぼうとした彼女の声は無意識のうちに抑えられていた。それは恐怖のため。そして、自分自身を守ろうという幼い本能のため。  人間のものとは思えないほどの断末魔の声。これがあの優しかった母の声なのか。  悪夢はさらに続く。  母と共にいたまだ見ぬ妹(彼女は妹であることを望んでいた)が無理矢理引き出されていた。この世に生を受けるはずだった妹は一言も発することはできなかった。 「うわぁぁぁぁっ!!」  彼女の中で弾けるものがあった。それと同時に抑えられていた声が響き渡る。母親の腹に手を差し込んでいた影が声の方向に振り返る。その手にはどちらのものかさえも分からない肉塊。口元から滴り落ちる鮮血。 「助けて、神様ぁ!」  悲痛な声が森中にこだまし、そして、神は現れる。 「・・・ぁん、・・・あーーんっ!」  びくん、とライアの瞳が緊張の色に染まる。それはロイセも同時だった。 「人の声が、今・・・。」  無意識のうちに背中につるされた剣を確かめ、ライアは声の方向に向かって走り出していた。 「ライアッ!待ってくださいっ!!」  ロイセも彼女の姿を見失わないように声のした林のほうに向かっていた。 「わぁぁぁぁんっ!!」  声が徐々に大きく、近くなっていく。木々の間を走る2人の目の前に突然視界が開けた。草むらになっているその真ん中で子供が泣いていた。 「子供が!」  ライアは今にも子供に襲いかかろうとしている魔物の姿を確認した。大人の腰ぐらいまでは有りそうな巨大なウサギ。 「ライア、それは一角ウサギです!角に気をつけて!!」  ロイセが子供を抱き上げて言う。彼女の言うとおり、その化け物ウサギの額には30センチ程もある大きな角が向けられている。ライアは、一角ウサギの視界に入り、剣を構えた。 「おいで、大きくなりすぎたウサギちゃん。」  ライアの言った言葉が分かったのかは分からない。しかし、その言葉に反応するかのように化け物ウサギが飛びかかってきた。ライアは真っ直ぐに飛んでくるウサギの角をやり過ごし、その無防備な背中を斬り付けた。ウサギは砂のように消え、小さな宝石が背の高い草の陰で輝いている。ライアはその宝石を拾い、腰の道具袋にしまいこんだ。  魔物を倒すと何故か宝石になるものがいる。宝石になる魔物はすべてガイアの噴火の後に確認されている。昔からネクロゴンドの山は宝石の産地として有名であった。それらの宝石を何者か力ある、しかも、心悪しき者が魔物として変えているのだ、と人々は信じている。それは奇妙なことではあるが、ある意味では不思議なことではない。植物さえも生えない死の大地で恐ろしい付与魔術師が魔物を作りつづけている。ネクロゴンドとはそれほど変わり果てた地獄の地だと言われているのだから・・・。 「君、大丈夫?」  子供の顔を覗き込もうとしたライアは子供を抱きかかえるロイセの異常なほど蒼白な顔色に引きつけられた。 「ロイセ・・・・?」  彼女の瞳は暗く、封じ込めていた忌々しい記憶が甦る。  神は戦の神だった。少女に襲いかかろうとしている影に鋭い光が走る。それが剣の軌跡であったことはすぐに分かった。影は青い毒々しい色の血飛沫をあげて倒れた。赤と青のコントラストに目を奪われる。 「怪我はないかい?」  神が少女に手をさしのべた。 「神様・・・・。」  ぼうっとした瞳に少しだけ光が戻り、少女は神の姿を見た。逞しい体躯の戦士の手が彼女の目の前にあり、ゆっくりと自らの手をそれに重ねる。 「お母さん・・・・」  不幸なことに彼女は幼かったが、非常に利発な子供だった。母がどうなってしまったかも分かっていた。赤と青の血だまりが妙に鮮やかで、不気味なほど美しい。  若くて美しかった母。もうすぐ生まれてくるはずだった妹。ついさっきまで優しく微笑んでいたはずなのに。  あまりにも突然な出来事に幼い心が壊れていく・・・・。  それは、少女が長い長いトンネルに足を踏み入れた瞬間だった。しかし、明けない夜はないと言うように、ゆっくりと夜明けを迎え、やがて彼女の元にも光溢れる朝がやってくるだろう。  明らかにロイセの様子がおかしい。先ほどの子供を助けてからというもの一言を言葉を発することはない。声をかけても心は此処に在らず、といった状態だ。  そんな状態のまま、レーベの村にたどり着き、子供を無事親の元に帰した後、2人は宿屋で1部屋借りることにして、久しぶりにベットで休めることになった。  ライアはロイセの状態を不審に思ってはいたが、声をかけてもほとんど答えらしい答えが返ってくるわけでもなく、一人芝居のような馬鹿馬鹿しささえ感じ始めてきたので、ついに彼女を宿に一人残して、村を散策することにした。 「長い時間、声を出すことを恐れていた。  あの時、あの瞬間にあの人が来てくれなかったら・・・・。」  彼女は完全に言葉を失っていた。  声を発することに対する恐怖。それは、自分の意見さえを押さえ込み、傍らから見れば戦士に付従う愛らしい人形のようでもあった。  彼女の恩人である戦士は優しかった。その優しさは利発な少女に十分すぎるほど伝わっていた。しかし、それよりも母親を失った瞬間の凍り付くような恐怖と悲鳴をあげた自分を見た魔物の目。肉がさける音。まだ人間としての形になりきれなかった妹の躯。望まずとも、少女の瞳がその光景を、耳がその音を如実に再現する。彼女は何度もその凍り付くような思いを戦士にぶつけた。そして彼は何度となくその言葉を真摯に受けとめてくれていた。 「死んだ人間を想うだけでは何も生まれない。生き延びた人間はそれを超えていく強さこそが必要だ。君には生き残るという運命が定められていたのだから。」  戦士は繰り返すように彼女に言い聞かせた。その言葉の中に彼のえも言われぬ深い悲しみがあったことに彼女は気付いていただろうか?  今まで封印してきたはずの過去。ロイセは再び心を封じようとしていた。しかし、彼女の神に対する深い信仰心がそれを押し止める。苦難に向き合い、自分を見つめる。小さな修道院で過ごした日々。修行は決して楽なものではなかったが、毎日が平和で、穏やかだった。恩人の戦士は心の傷が癒えかけた彼女を預け、再び1人旅に戻っていった。  のちに、その戦士は南の島国アリアハンの勇者であったことが彼女の耳に入ることになる。そう、彼はライアの父、オルテガだったのだ。しかし、間もなくロイセはオルテガの訃報を耳にする事になる。それは、彼と別れてから2年ほどたった底冷えのする雪の降る日だった。  修道院での勉強を終えたロイセは、神官として街の教会に勤める年となる。彼女はオルテガの故郷アリアハンに移り、城下にある教会にその身を置くことにした。  そして1年前、ライアがアリアハン王に謁見したと言う噂を聞き、いてもたってもいられなくなったロイセは神父に願い出て、自分もライアとともに旅に出たい、と言う気持ちを伝えた。日頃から熱心ではあったが、自分の気持ちを強く表現することのない彼女のこの態度に神父はただならぬ決意を感じてか、国王にロイセを神官戦士として1年間預けてもらえるよう取り計らってくれたのだ。 「私に定められた運命とは、ライアとともにあなたの果たせなかった夢を成し遂げることなのでしょうか・・・・?あなたに助けていただいたこの命を、あなたの意志を継ぐ者のために私は守り続けます。」  トンネルの向こうにあった点が徐々に強い光となる。  ロイセは長い夜を終え、ついに夜明けを迎えようとしていた。